フィンセント・ファン・ゴッホの生涯と作品 ──魂を削りながら描いた色彩と筆跡の軌跡

フィンセント・ファン・ゴッホの生涯と作品 ──魂を削りながら描いた色彩と筆跡の軌跡

はじめに:色と筆跡で語られた、ある孤独な画家の人生

みなさんは、ゴッホの絵を見たとき、どんな感情が湧きますか?

燃えるような「ひまわり」、星が渦を巻く「星月夜」、空を舞う「カラスのいる麦畑」……

誰もが一度は目にしたことのあるこれらの作品は、ゴッホの感情そのものであり、彼の生きた証です。

生前にほとんど評価されなかったにもかかわらず、今や世界中の人々の心を動かし続けているゴッホ。

彼の人生をたどると、作品の裏にある「心の物語」が見えてきます。

今回は、彼の短くも濃密な画家人生を、時代ごとの代表作とともに丁寧にご紹介します。


ゴッホが画家になるまで──信仰と挫折、そして転機

フィンセント・ファン・ゴッホは1853年、オランダの牧師の家庭に生まれました。

若い頃は美術商として働きますが、内向的で情熱的な性格が周囲と合わず、職を転々とします。

ゴッホが1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。

 

グーピル商会の画廊で働いていた19歳頃のファン・ゴッホ


その後、宗教に救いを求めて神学を学び、ベルギーの炭鉱地帯で伝道活動に従事しました。
しかし、過度な自己犠牲的行動から教会からも疎まれ、活動を解任されてしまいます。
人生に迷い、孤独の中にいたゴッホは、1880年頃「絵を描くこと」を通じて人々に何かを伝えたいと決意。
27歳という遅いスタートでしたが、弟テオの支えを受けながら、独学で画家の道を歩み始めます。

「真の芸術とは、魂をこめて描かれたものであるべきだ」

この信念を胸に、彼は自らの感情や人生を絵に託し始めたのです。


家族と弟テオの支え

ゴッホの人生において、弟テオ・ファン・ゴッホの存在は欠かせません。

21歳の弟テオ(1878)

テオは画商として働きながら、精神的にも経済的にも兄を支え続けました。

ふたりは生涯にわたって約600通もの手紙を交わし、その中でフィンセントは作品への思いや人生の葛藤を赤裸々に綴っています。これらの手紙は、彼の内面と芸術観を知る上で貴重な資料となっています。

兄弟の絆は非常に深く、フィンセントが亡くなった半年後、テオも病に倒れてこの世を去りました。現在ふたりは、オランダ・オテルローのゴッホ美術館で隣同士に眠っています。


初期:オランダ時代(1880–1885年)

この時期のゴッホは、画家としての第一歩を踏み出したばかり。
労働者や農民の生活を主題に、暗く重い色調の絵を描いていました。
敬虔なキリスト教的精神と農民への共感が色濃く反映されています。


《ジャガイモを食べる人々》1885年

質素な夕食を囲む農民たちの姿を、硬い筆致と暗い茶色・緑で描いた作品。
ゴッホはこの作品で、誠実に働く人々の「真実の姿」を描きたかったと言います。
技術的には未熟な部分もあると言われていますが、後の作品にも通じる「強い意志」がここに宿っています。


《農婦の頭部》


《織工》

 

《小屋の前で地面を掘る農婦》1885年頃

いずれも農民の生活と顔を題材にした素描や油彩。
人物の表情やその姿には労働の重みが感じられます。
レンブラントに学び、陰影の扱いに工夫を凝らしたことがうかがえます。


パリ時代(1886–1888年)

1886年、33歳のゴッホは、「もっと自由な表現を求めたい」という強い想いを胸に、弟テオのいるフランス・パリへ向かいます。
テオはモンマルトルで画商として働いており、当時の前衛的な芸術家たちと交流を持っていました。

ゴッホは弟テオのもとで暮らしながら、フェルナン・コルモンの画塾に通い、そこでロートレックやエミール・ベルナール、スーラら若い芸術家たちと出会います。
色彩と筆触が一気に開放され、ジャポニズムにも影響を受けました。

《モンマルトルの風車》1886年


《タンギー爺さん》1887年

タンギー爺さん

画材屋タンギーの肖像の背景には浮世絵が飾られ、パリでゴッホが強く魅せられた日本美術の影響が見て取れます。
穏やかな表情と鮮やかな色のハーモニーが印象的で、肖像画に新しい表現を加えた作品です。


《レストランの内部》

フィンセント・ファン・ゴッホ 「レストランの内部」

こちらはパリに来たゴッホが印象主義の影響を受けて制作した作品の一つ。
ゴッホ独自の力強さはありつつも、オランダ時代の暗い色調は影を潜めています。                                                
光の色点をちりばめたような美しい画面は、見る人の心を明るく華やかに照らしてくれるようです。


アルル時代(1888年2月~1889年5月)

アルル時代はゴッホの創作が爆発的に開花した時期です。

ゴッホがアルルに移り住んだのは、明るい光と強い色彩に魅かれたからと言われています。
灰色の北フランスから離れ、南仏のまぶしい太陽と自然に、彼は創作の可能性を見出しました。

《プロヴァンスの農夫》1888年

フィンセント・ファン・ゴッホ プロヴァンスの農夫


《グリーン・フィールド》1889年

外光の中で描かれた風景や都市のスケッチには、印象派の明るさとスーラの点描からの影響が融合しています。

構成も柔らかくなり、色彩の喜びが絵にあふれ始めます。

また、日本の浮世絵に憧れていたゴッホは、アルルを“ヨーロッパの中の日本”のように感じており、芸術家たちとの共同生活を夢見て「黄色い家」を構えました。

こうして始まったアルル時代に、《ひまわり》《夜のカフェテラス》など多くの名作を生み出しました。
この時期のゴッホの作品には、歓喜と不安が同時に表れています。

 

《アルルの跳ね橋》1888年

アルルの跳ね橋

ゴッホはアルル郊外を散策する中で、オランダの故郷を思わせる運河と跳ね橋(ラングロワ橋)に出会い、懐かしさと親しみを感じ、この橋を何度も描きました。
この橋はアルルの郊外を流れる運河にかかっていて、荷馬車や人々が行き交う生活感のある風景でした。

跳ね橋はアルル時代のゴッホを捉えた大切なモチーフの一つ。
ゴッホにはこの橋と、故郷オランダに数多い跳ね橋との思い出が重なったのだそうです。

眺めていると洗濯をしている南仏女性たちのおしゃべりや水音が、画面から響いてくるような、温かい印象の作品です。

 

 

《黄色い家》1888年

フィンセント・ファン・ゴッホ 「黄色い家(アルルのゴッホの家)」

ゴッホは1888年の5月に、アルルの駅に近いラマルチーヌ広場に面したこの家を月15フランで借りました。この家の2階が居室となっていて、居室の様子は「アルルの寝室」という作品に描かれています。

左側のピンクの日よけのさがった家は、ゴッホが毎日食事に行くレストラン。ゴッホの親しかった郵便配達夫ルーランの家は、通りの奥の左側です。

なんの変哲もない家の風景ですが、青と黄のつよい対照を通して、ゴーギャンや他の画家たちが来ることを待ち侘びているゴッホの、不安と期待にあふれた画面が作り上げられています。


《画家の寝室》1888年

本作はゴッホが188810月に南フランスのアルルで制作した作品で、ゴッホの代表作の一つ。

この絵は、ゴッホ自身が生活していた「黄色い家」の寝室を描いたもので、彼が落ち着きと安らぎを求める気持ちを反映しています。

モチーフは寝室ですが、この絵は単なる写生ではなく、休むことのない頭と想像力とを持ったゴッホが、休息や睡りに対して抱く全身的な願望をあらわしたものと言われています。

テオあての手紙で、ゴッホは次のように語っています。

「今度はぼくの寝室をごく単純なかたちで描いた。ただ、ここでは、他彩が大きな役割を演じなければならないんだ。その単純化で、ものに、より大きなスタイルを与えることによって、休息や睡りを暗示しなければならないんだ。つまりね、この絵を見ることで、頭が、と言うよりも、想像力が、休まらなくちゃならないんだよ。」


《ひまわり》

フィンセント・ファン・ゴッホ 「15輪のひまわり ロンドン・ナショナル・ギャラリー版(4枚目)」

複数ある中で最も有名で完成度が高いと評されている「ひまわり」です。

ゴーギャンと過ごす「黄色い家」に飾るために制作され、また実際にゴーギャンも、このひまわりを特に絶賛したと言われています。

花も花瓶も背景も全て黄色系で描かれていますが、その絶妙なコントラストと温かみのある存在感に引き込まれてしまう作品です。

ひまわりは、小さなの太陽のような形状をしていることや光が結晶したような黄色の精妙な諧調を持ち、自ら太陽を目ざす性質からもゴッホの精神の象徴であると言われています。

 

《夜のカフェテラス》1889年

フィンセント・ファン・ゴッホ 「夜のカフェテラス」

南フランス・アルルの星空の下、ガス灯で照らされ人でにぎわうカフェが描かれています。
夜空に描かれているのは秋の星座。やぎ座とけんびきょう座の一部、またはみずがめ座と言われています。

人々のさざめきと、初秋の夜の空気、そして星が幻想的に輝く空とが組み合わさり、全体として、温かさと寂しさが混じり合ったような、どこか懐かしさや郷愁を感じさせる「夜」の情景を作り上げています。


〜ゴーギャンとの友情と別離

1888年、ゴッホはアルルで「南方のアトリエ」構想を抱き、ポール・ゴーギャンを招いて共同生活を始めます。

ポール・ゴーギャン( 1848年- 1903年)


《ひまわりを描くゴッホ》※ポール・ゴーギャン作

ひまわりを描くゴッホ

しかし、性格や制作スタイルの違いから次第に関係は悪化し、ある夜の激しい口論をきっかけに、ゴッホは精神的に不安定となり、自らの耳を切り落とすという事件を起こしてしまいます。

この出来事はゴッホの生涯を大きく変える転機となり、以降、彼は療養生活を送りながらも制作に取り組むようになります。

ゴーギャンとの交流は短期間でしたが、お互いの作品に深い影響を与えたことは間違いありません。

 

《ゴーギャンの椅子》1888年

ゴーギャンの椅子

この絵は、ゴッホがアルルで共同生活をしていたゴーギャンと別れた直後に描かれたとされています。
重厚な木製の椅子が描かれ、その上には本とろうそくが置かれています。
暗い背景に浮かぶこの椅子は、知性や内省、あるいは不在の存在感を表現しているとも解釈されています。
ゴッホにとってこの「椅子」は、単なる家具ではありませんでした。
それは去っていったゴーギャンへの未練や、彼との芸術的対話が続くことを願った心の表れでもあり、自らの孤独やアイデンティティまでもがそこに投影されています。


 サン=レミ時代(1889–1890年)

その後ゴッホは精神を病み、ランス南部のサン=レミにあるセントポール病院に入院しました。
しかしこの時期も創作への意志は衰えず、内面世界を映し出した象徴的な作品が数多く生まれました。

《星月夜》

フィンセント・ファン・ゴッホ 「星月夜」

ゴッホは、プロヴァンスの星月夜の美しさにとりつかれていて「ローヌ川の星月夜」という作品を制作しましたが、こちらはサン=レミの精神病院で療養中に描かれた星月夜です。

彼の病室の窓から見える景色を基にしていますが、実際の風景とは異なり、彼自身の想像と感情が強く反映されていると言われています。

ふしぎな夜空と、光の渦のような輝く星。地上から、黒々とした夜空へと突き刺さるように糸杉が伸びています。糸杉はしばしば死や永遠の象徴とされ、ゴッホにとっても生と死の境界を示唆する重要なモチーフでした。

この圧倒的な空(自然)と、人々がつつましく生きる地上との対比は、ゴッホにとってのこの世界のありようを表しているのかもしれません。

 

 

《ヴァイオレットのアイリスの花瓶》

フィンセント・ファン・ゴッホ 「ヴァイオレットのアイリスの花瓶」

花瓶から、そしてカンヴァスからも勢いよくはみ出しているアイリス。
凛とした美しさと生命力を感じさせます。



《糸杉と星の見える道》

フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」アートポスター(フレーム付き)1 モーダルでメディア (2) を開く フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」アートポスター(フレーム付き)2 モーダルでメディア (3) を開く フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」アートポスター(フレーム付き)3 モーダルでメディア (4) を開く フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」アートポスター(フレーム付き)4 モーダルでメディア (5) を開く フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」アートポスター(フレーム付き)5 モーダルでメディア (6) を開く フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」アートポスター(フレーム付き)6 モーダルでメディア (7) を開く HOMU フィンセント・ファン・ゴッホ 「糸杉と星の見える道(夜のプロヴァンスの田舎道)」

フランスのサン=レミ=ド=プロヴァンスでゴッホが描いた最後の作品。

ゴッホは弟のテオに宛てた手紙の中で「いつも糸杉に心惹かれている。」と述べていますが、糸杉は死の象徴であることから、この作品はさらにゴッホが自らの死期が近いと自覚していたのかもしれません。

道を歩く二人は、ゴッホ自身が仲間を求めていることを表してます。
とても切なく観る人の心を打つ作品です。



《バラ》

フィンセント・ファン・ゴッホ 「薔薇」

本作はゴッホがサン=レミの精神療養院を退院する直前、(ゴッホが自らの命を絶つ2ヶ月前に)希望と再生の象徴として描かれた静物画です。

弟テオへの手紙には、「この絵には希望を込めた」と記されています。

淡いグリーンと白を基調として描いていますが緑がかった背景と葉の色合いが、穏やかさと静寂を強調しています。

描かれた当初はバラの花びらが淡いピンク色だったと言われていますが、時間の経過とともに顔料が退色し、現在の白いバラに見えるのです。この変化もまた、作品に儚さと歴史の重みを与えています。

花瓶に溢れんばかりに生けられたバラは、画面の端まで広がり、生命力と躍動感を感じさせます。それでいて、画面全体には落ち着きと静けさが漂い、ゴッホが心の平穏を求めていたことがうかがえます。

白いバラは彼にとって、心の癒しと新しい始まりの象徴だったのかもしれません。


オーヴェル=シュル=オワーズ時代(1890年)

1890年5月、ゴッホはフランス北部の小さな村「オーヴェル=シュル=オワーズ」に移り住みます。パリ近郊にあるこの村は、自然豊かで静かな環境でした。
彼の主治医であり理解者でもあったポール・ガシェ医師が住んでいたこともあり、弟テオのすすめでここに滞在することになります。

この時期、ゴッホは非常に多作で、約70日間で70点以上の絵を描いたとされます。
しかし、彼の心の不安定さは依然として続いており、経済的な不安や、弟テオの健康や仕事の問題などが精神に影を落としていました。

《ドクター・ガシェの肖像》

ドクター・ガシェの肖像

内省的な表情の医師ガシェを描いたこの作品には、ゴッホ自身の姿が重ねられているようです。心の苦悩と、それを癒そうとする優しさが同居しています。



《オーヴェルの教会》

オーヴェルの教会

堂々とした教会がゆがんで描かれ、前景の分かれ道は迷いや行き場のなさを象徴するかのよう。明と暗の対比、道の配置などに深い心理的表現が感じられます。



《カラスのいる麦畑》

フィンセント・ファン・ゴッホ カラスのいる麦畑

絶筆とされる作品。カラスが飛び交う空と、行き止まりのような道、風に揺れる麦。
自然を通して心象を描いたこの絵には、死と孤独の予兆が静かに漂っています。


最後の日と死の謎(1890年7月27日〜29日)

1890年7月27日、ゴッホは自ら拳銃で胸を撃ちます(当時は自殺とされたが、後に事故や他殺説も浮上しています)。撃った後、自力で宿まで戻ったとされています。

彼はまだ生きており、ガシェ医師や弟テオが看病しますが、2日後の7月29日、37歳の若さで亡くなりました。

弟テオは、兄の最期を看取るためにすぐに駆けつけ、彼のそばにいました。亡くなる前にゴッホはこう言ったとされています。

「悲しみの中にあっても、苦しみの中にあっても、私は絵を描き続けた。」

 


ファン・ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)


死後の評価とレガシー

ゴッホの生前、彼の作品はほとんど評価されていませんでした。しかし死後、その独自の色彩と筆致、精神性をもった作品群が再評価され、20世紀以降、現代絵画に多大な影響を与える存在となります。

弟テオもゴッホの死から半年後に病死しましたが、テオの妻ヨーがゴッホの作品と書簡を保存し、世に広めたことで、今日のような高い評価につながったのです。

ヨー(フィンセント・ファン・ゴッホの弟テオの妻)

 おわりに:不器用なまっすぐさは、時を越えて私たちの心に届く

ゴッホが生きたのは、今から100年以上も前の時代。
それでも彼の絵は、どこか今を生きる私たちの心にもそっと寄り添ってくれるように感じられます。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「ローヌ川の星月夜」
《ローヌ川の星月夜》1889年

私たちがゴッホの絵に惹かれる理由は、単に「美しいから」とか「有名だから」といった表面的なことではなく、もっと深いところにある感情や生き方の共鳴にあるように思います。

彼の筆致には、美しさよりも「まっすぐな感情」があります。
不器用で、迷いながらも、それでも描かずにはいられなかった...
そんな強い想いが、色彩となり、形となって、キャンバスに刻まれているように見えます。

フィンセント・ファン・ゴッホ 「種を蒔く人」
《種を蒔く人》1888年


おそらくゴッホは、自分の絵が未来の誰かを励ますことになるなんて、思いもよらなかったのではないでしょうか。
しかし私たちは今、その絵に自分の中の痛みや希望を重ね、言葉を超えたぬくもりや力を感じています。

ゴッホの絵が、時代や国を超えて、今も多くの人の心を打つのはそういった理由があるのかもしれません。

 

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