マリー・ローランサン 「エリアーヌ・ド・ボーモンの肖像」アートポスター(フレーム付き) / Marie Laurencin “Portrait d’Eliane de Beaumont” 絵画・名画[額入り]
マリー・ローランサン 「エリアーヌ・ド・ボーモンの肖像」アートポスター(フレーム付き) / Marie Laurencin “Portrait d’Eliane de Beaumont” 絵画・名画[額入り]
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作家名:マリー・ローランサン / Marie Laurencin
作品名:エリアーヌ・ド・ボーモンの肖像 / Portrait d’Eliane de Beaumont
サイズ(額外寸): W348㎜ × H424㎜ × D23㎜
重量:約1.3kg
技法:ジクレー
用紙:水彩紙
フレーム:木製つや消しゴールド・前面アクリル板
付属品:紐、箱(額装し、壁掛け用紐を取り付けた状態でお届けします)
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商品詳細
柔らかいタッチで描かれた女性の肖像画。全体が寒色で儚げに描かれてはいますが、抱きついている犬の無邪気な表情から、少女への愛情が伝わってきて、見る人を温かい気持ちにさせてくれます。
作家説明
マリー・ローランサン / Marie Laurencin
1883年10月31日 - 1956年6月8日
国籍:フランス
20世紀初頭から中盤のフランスを代表する、女流画家。
私塾アカデミー・アンベールでブラックらとともに絵画を学ぶ。1907年にピカソや詩人のアポリネールと知り合い、モンマルトルの「洗濯船」と呼ばれるアトリエの仲間に加わる。詩人のギヨーム・アポリネールと恋愛関係になり、アポリネールのミューズとされていた。フォーヴィズムやキュビズムといった前衛的な流れの中、彼女自身は、憂いを秘めた女性像を描き続けた。獣派や立体派などを学んだのち、独特の繊細でけぶるような色彩やリズミカルで優雅なフォルムを駆使して、愁いを含んだ瞳の少女を描き、第一次大戦前の佳き時代、エコール・ド・パリの中で、経済的にも自立した最初の女性画家の一人となった。
ローランサンは生涯、ほとんど男性を描くことはなかった。例外的に、詩人のジャン・コクトーの肖像を残しているが、それも彼の中の女性性に惹かれて描いたという。1920年代以降はより簡潔で優美なフォルムへと移行し、舞台装置や衣裳も数多く手がけるなど、エコール・ド・パリの中でも重要な位置を占めた。
彼女の作品には、繊細で女性特有の感覚と憂いを含んだ叙情の世界が一貫している。薔薇色や紫・青・灰色などの淡い色調の中に漂う知性の輝きと注意深くほのめかされた官能の存在が、画面全体を紗のベールで覆ったように柔らかな雰囲気をかもし出している。淡い色調と簡潔なフォルムを自分のものとして、多くは女性像を描いた。
略歴
1883年 パリで私生児として生まれる。
1893年 パリのリセ・ラマルティーヌ高校に入学。
1902年 女子師範学校の準備を止め、製陶所で磁器の絵付けの講習に通う。
1903年 画商アンリ=ピエール・ロシェと出会う。
1904年 リセ・ラマルティーヌ卒業。画塾アカデミー・アンベールに入り、ジョルジュ・ブラックらと出会う。
1905年 ブラックを介して、モンマルトルにあったバトー・ラヴォワール(洗濯船)でパブロ・ピカソや詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールと知り合う。
1907年 ギョーム・アポリネールと恋に落ちる。アンデパンダン展に初出品。
1911年 ニコル・グルーと出会い、生涯の親友になる。アポリネールがモナ・リザ盗難事件の容疑者(無罪)として警察に拘留されている間にローランサンのアポリネールへの恋愛感情も覚め、訣別。
1912年 パリのバルバザンジュ画廊において初展覧会。「家具付きの貸家」製作。
1913年 母ポーリーヌ死去。ドイツ人画家、オットー・フォン・ヴェッチェンと出会う。「読書する女」「アンドレ・グルー夫人ニコル」製作。
1914年 ヴェッチェンと結婚し、スペインへ亡命。
1916年 バルセロナへ転居。 アポリネールが戦争で負傷。
1917年 ピカビアの主催するダダの雑誌「391」に挿絵を提供。
1921年 パリへ転居。ロザンベール画廊での個展が成功する。
1922年 ヴェッチェンと離婚。
1923年 肖像画を描き始める。ジャン・コクトー台本の「牡鹿」舞台装置と衣装を担当。
1925年 シュザンヌ・モローと同棲。
1932年 「パリ16区のアトリエ」にて教鞭をとる。
1949年 ポール・モイリアン書店にて「友人達の肖像展」を開催。
1954年 シュザンヌ・モローを養女に。
1956年 パリにて心臓発作で死去。73歳。