アメデオ・モディリアーニ 「緑のブラウスを着た少女 1917」アートポスター(フレーム付き) / Amedeo Modiglian “Girl in a green blouse 1917” Art Frame
アメデオ・モディリアーニ 「緑のブラウスを着た少女 1917」アートポスター(フレーム付き) / Amedeo Modiglian “Girl in a green blouse 1917” Art Frame
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作家名:アメデオ・モディリアーニ / Amedeo Modiglian
作品名:緑のブラウスを着た少女 1917 / Girl in a green blouse 1917
サイズ(額外寸): W348㎜ × H424㎜ × D23㎜
重量:約1.3kg
技法:ジクレー
用紙:水彩紙
フレーム:木製つや消しゴールド・前面アクリル板
付属品:紐、箱(額装し、壁掛け用紐をつけた状態でお届けします)
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商品詳細
「緑のブラウスを着た少女」というタイトルですが、髪型のせいかモデルの女性は少女としては少し大人っぽく見えます。ブロンドの髪色とゴールドのフレームがよくマッチして、部屋に飾ればエコール・ド・パリの時代のレトロクラシックな雰囲気を漂わせてくれます。
作家説明
アメデオ・モディリアーニ / Amedeo Modiglian
1884年7月12日 - 1920年1月24日
国籍:イタリア
主にパリで制作活動を行ったイタリアの画家、彫刻家。芸術家の集うモンパルナスで活躍し、エコール・ド・パリ(20世紀初頭に各国からパリに集まってきた外国人芸術家たち・パリ派)の画家の一人に数えられる。
両親はともにスペイン系ユダヤ人で裕福な家系の出身であるといわれている。22歳でパリに出たモディリアーニは良き理解者、医師ポール・アレクサンドルを介して、絵画制作を続ける一方、彫刻家のブランクーシに傾倒。30歳まではモディリアーニ自身もアフリカ民族に伝わる彫刻の研究と制作に没頭するが貧困で材料の石が買えなかったといっている。また製作中に出る石粉で肺を痛めることから絵画に専念。しかし、顔や首を長く描く彼独特の絵画はあまり売れず、酒や麻薬に溺れ、生活は乱れ極貧生活であった。
またエコール・ド・パリの芸術家達が居住した「蜂の巣」(ラ・リューシュ)では、スーチンやキスリングらと交流した。しかし、プリミティヴな芸術への興味、古典芸術の技術に裏打ちされた彼の作風は、彼らとの関係の深さほどにはエコール・ド・パリの芸術家の典型とは見られず、独創的である。
代表作は、大部分が1916年から1919年の間に集中して制作されている。 ほとんどは油彩の肖像と裸婦であり(風景は4点、静物はなし)、顔と首が異様に長いプロポーションで目には瞳を描き込まないことが多いなど、特異な表現をとっているが、これは自身の彫刻の影響が指摘されている。 肖像画についてはモデルの心理や画家との関係を表現するが、一方、裸体画については、女性の造形美への関心が表れているのが特徴。
「自分に犠牲を強いてはいけない。君の真の務めは、自分自身の夢を守ることだ。美は、時として苦しい義務を伴うが、そこから、魂の最も美しい働きが生み出されてくるのだ」アメデオ・モディリアーニ
友人オスカル・ギーリアの手紙より(1903年)
略歴
1884年 地中海に面したイタリア北西部の港町、リヴォルノに生まれる。
1902年 フィレンツェのスクオラ・ディ・ヌード(裸体画学校)に入学し、1903-05年は、ヴェネツィアの美術学校で学んだ。
1906年 肖像画家を目指して渡仏。パリへ。
1908年 アンデパンダン展に出品。
1909年 モンパルナスに移る。ここでルーマニア出身の彫刻家、コンスタンティン・ブランクーシと交流する。
1912年 サロン・ドートンヌに石彫8点を出品。
1916年 ズボロスキーがモジィリアーニの画商となる。ベルト・ウェイル画廊でズボロスキーによって、初めての個展を開催。
1917年 アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと知り合い、同棲を始める。 同年11月29日、母親と同じ名前である長女ジャンヌが誕生。
1919年 ジャンヌ・エビュテルヌに結婚を誓約。
1920年 貧困と生来患っていた肺結核に苦しみ、大量の飲酒、薬物依存などの不摂生で荒廃した生活の末、結核性髄膜炎により死亡。 ジャンヌもモディリアーニの死の2日後、後を追って自宅から飛び降り自殺した。この時、妊娠9ヶ月だった。