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クロード・モネ 「チャーリング・クロス橋」アートポスター(フレーム付き) / Claude Monet“ Charing-Cross Bridge”名画・絵画[額入り]

クロード・モネ 「チャーリング・クロス橋」アートポスター(フレーム付き) / Claude Monet“ Charing-Cross Bridge”名画・絵画[額入り]

通常価格 ¥23,200
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※送料無料
美術館品質の木製フレームとマットにて額装してお届けします。
※3~5営業日以内に発送。

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作家名:クロード・モネ  /  Claude Monet
作品名:チャーリング・クロス橋 / Charing-Cross Bridge
サイズ(額外寸): W424㎜ × H348㎜ × D23㎜
重量:約1.6kg
技法:ジクレー
用紙:水彩紙
フレーム:木製ブラウン・前面アクリル板
付属品:紐、箱(額装し、壁掛け用紐を取り付けた状態でお届けします)
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※商品の色は撮影場所や照明の具合、ご利用のモニター環境により実際の商品と多少異なって見える場合がございます。


商品詳細
クロード・モネは1899年から1904年にかけてロンドンを訪れ、霧に包まれたテムズ川の風景を多数描きました。その中でも「チャーリング・クロス橋」は、モネ独自の視点で捉えたロンドンの印象を映し出した作品です。

この絵には、霧の中にぼんやりと浮かび上がる橋と、その下をゆったりと流れるテムズ川が描かれています。空と水、建物の境界線は曖昧になり、すべてが溶け合うような幻想的な雰囲気が漂います。
モネは、刻々と変化する光と空気を捉えるため、異なる時間や天候のもとで何枚もの「チャーリング・クロス橋」シリーズを制作しました。
中でも本作は水面に輝く光の表現が美しく、離れて観ると絵が自ら本当に輝いているように見えてきます。

紫や青、黄、オレンジといった繊細な色のグラデーションが、朝もやに包まれたロンドンの静けさと神秘的な空気を生み出しています。水面には橋の影と光が揺らめき、モネならではの筆致が、移ろう時間の儚さをも感じさせます。

本作は都市風景を描きながらも、自然の光や大気の変化を重視したモネの芸術観を象徴する一枚です。

 

作家説明

クロード・モネ  /  Claude Monet

1840年11月14日 〜 1926年12月5日

国籍:フランス

印象派を代表するフランスの画家。1872年の作品「印象・日の出」が印象派の名前の由来に作品なる。モネたち印象派の画家たちは、ロマン派の豊かな色彩、コローやドービニーらバルビゾン派の緻密な自然観察、クールベの写実主義と反逆精神、マネの近代性を受け継ぎ、伝統的なアカデミズム絵画の決めた主題、構図、デッサン、肉付法・陰影法に縛られない、自由な絵画を生み出した。モネは特に戸外制作を重視し、物の固有色ではなく、日光やその反射を受けて目に映る「印象」をキャンバスに再現することを追求した。絵具をパレットで混ぜずに、素早い筆さばきでキャンバスに乗せていくことで、明るく、臨場感のある画面を作り出すことに成功。その後の連作の時代には、光の当たったモチーフよりも、光そのものが主役の位置を占めるようになり、物の明確な形態は光と色彩の中に溶融していった。鋭敏な観察力と感受性をもって絶え間なく変わり続ける風景を表現したモネは、印象派を代表する画家と言われる。

 

略歴

1840年 1114日、フランス・パリに生まれる。本名はオスカー=クロード・モネ。

1851年 ル・アーヴル中学校に入学し、風刺画を描き始める。地元で有名なカリカチュアのデッサンを販売。

1858年 風景画家ウジェーヌ・ブーダンと出会い、戸外制作(プレネール)の重要性を学ぶ。

1859年 パリへ移り、美術を学ぶ。アカデミー・シュイスに通いながら、カミーユ・ピサロと知り合う。

1861年 軍隊に志願し、アルジェリアに赴くが病気のため除隊。

1862年 シャルル・グレールの画塾に入門し、ルノワール、シスレー、バジールと出会う。

1870年 カミーユ・ドンシューと結婚。普仏戦争を避け、ロンドンへ移住。

1871年 オランダ・ゼーラント州へ滞在後、フランスへ帰国。アルジャントゥイユに移住。

1874年 第一回印象派展を開催。《印象・日の出》を出品し、「印象派」の名の由来となる。

1879年 妻カミーユが死去。

1883年 ノルマンディー地方のジヴェルニーに移住。

1890年 ジヴェルニーの土地を購入し、庭園を整備。「積みわら」シリーズを制作。

1892年 アリス・オシュデと再婚。ルーアンに滞在し、「ルーアン大聖堂」シリーズを制作。

1899年 日本風の太鼓橋を備えた庭園を完成させ、「睡蓮」シリーズの制作を開始。

1900年代前半 白内障を発症し、視力が低下。作品の色彩が赤みを帯びる。

1911年  妻アリスが死去。

1914年 息子ジャンが死去。大型の「睡蓮」連作の制作を開始。

1923年 白内障の手術を受けるが、視力は完全には回復せず。

1926年 125日、ジヴェルニーで死去。ジヴェルニーの墓地に埋葬される。

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