みなさんこんにちは。
本日はHOMUでも多く取り扱っているアンリ・マティスの版画集「ジャズ」シリーズについてご紹介させていただきます。
版画集『ジャズ』は、マティスによる切り紙絵に基づいた挿絵本です。
この「ジャズ」シリーズはマティスの晩年における芸術的革新の結晶であり、色彩と形が織り成すダイナミックな世界を象徴しています。
1947年に発表されたこのシリーズは、マティスの独創的な切り紙絵の技法を用いて制作され、サーカス、神話、タヒチ旅行の思い出など多様なテーマが色鮮やかな作品に反映されています。
マティスはこのシリーズを通じて、従来の絵画表現から離れ、色紙とハサミによる新たな表現方法を開拓しました。
タイトルは「ジャズ」となっていますが直接的に音楽の「ジャズ」をモチーフとして制作されたのではないそうです。
色と動きを自由で即興的に組み合わせて生み出された作品は、まるでジャズ音楽のようであり、カラフルで自由なモチーフのぶつかりあいが、ジャズ特有のリズムとなっていることから、そのタイトルがつけられました。
本記事では、「ジャズ」シリーズの誕生の背景、制作過程、各作品の特徴とその意味について取り上げていきまたいと思います。
誕生の背景:病気を超えて新たな表現へ
マティスの晩年と切り紙絵技法の誕生
アンリ・マティス(1869-1954)は、20世紀を代表する画家であり、彼の作品は色彩の魔術師とも称されるほど豊かな色使いで知られています。
しかし、マティスの健康状態は晩年に急激に悪化し、長時間の制作が困難になりました。1941年に大腸癌の手術を受け、その後も体力は回復せず、ほとんどの時間をベッドや車椅子で過ごさなければなりませんでした。
しかし、創作への情熱は衰えず、絵筆を手にする代わりに新たな表現方法として「切り紙絵」に目を向けました。
切り紙絵とは
マティスは色紙を「描くように」切り取り、色と形の組み合わせを追求しました。彼は切り紙絵技法について「私は色で描くのではなく、色で切り取る」と語り、色彩そのものを素材として扱う新しいアプローチを見せました。
こうして、彼の健康状態に制限されながらも自由でダイナミックな創作が可能となり、「ジャズ」シリーズが誕生したのです。
「ジャズ」シリーズの制作
制作のプロセス
「ジャズ」は、1943年から1947年にかけて制作されました。
マティスはこのシリーズのために、様々な色の紙を使って大胆な形を切り抜き、それらをキャンバスの上に配置しました。彼のスタジオには、鮮やかな色紙が無数に並び、彼はそれらを自由に選んで組み合わせることで、色と形の即興的な表現を楽しみました。
マティスが「ジャズ」を制作していた時期、彼は芸術的な「即興性」と「遊び心」を重視していました。この即興性は、タイトルの「ジャズ」からも明らかで、ジャズ音楽が持つリズムや自由な表現を視覚的に表現したいという彼の意図が伺えます。
「ジャズ」の出版と反響
「ジャズ」は、限定版のアートブックとして発表されました。
最初の出版では200部しか制作されず、各ページにはマティスの手書きのテキストが添えられていました。このテキストは、彼の作品に対する考えや制作の背景を語るもので、彼の芸術観や人生哲学を垣間見ることができます。
20点の切り紙絵のカラー印刷にマティス自身の筆跡による文章を交互に配し、あたかも中世ヨーロッパの装飾写本を現代に蘇らせたかのような構成になっています。
「ジャズ」は出版当初から大きな反響を呼び、その鮮やかな色彩と革新的な手法は多くの批評家や芸術家たちに衝撃を与えました。
各作品の特徴とその意味
「ジャズ」シリーズには、20点の切り紙絵作品が含まれています。それぞれの作品は、視覚的に美しいだけでなく、深いテーマ性と物語を持っています。ここでは、全ての作品を紹介し、その魅力を探っていきます。
No.1「道化師」
パラード(サーカスの呼び込みのために寸劇などを小屋の前で見せるもの)の道化師がカーテンの横に立つ姿が描かれています。
「サーカス」と書かれたバナー、赤いカーペット、そして網渡りを切り紙絵で表現しています。
「サーカス」は、「ジャズ」シリーズの中心的なテーマの一つであり、サーカス団の演技や舞台裏の様子が描かれています。作品全体には、リズムと動きが感じられ、即興的なパフォーマンスのようなエネルギーが溢れています。
マティスはサーカスを通じて、日常の中に潜む美しさや楽しさを捉えようとしました。その鮮やかな色使いと自由な形の組み合わせは、観る者に芸術の無限の可能性を感じさせます。
当初は版画集の表紙として制作されたものと考えられています。
タイトルにもなっているジョゼフ=レオポル・ロワイヤル(1835-89)は、長年サーカスの曲馬団長を務めた人物です。
背景の青は彼のコスチューム、まわりの黄色の丸はその金ボタンを表わしています。
作品を上下逆にすると、口を大きく開けた人の横顔であることがわかります。
マティスはなぜ顔をさかさまに配置したのでしょうか?その方がバランスが良かったからか、もしくは別の意図が込められているのか...
その理由を考えるのも面白いです。
また左側にはマティスのみずみずしい筆跡が加わり、全体としてより豊かな表現を獲得しています。
ボールに乗って曲芸をする白い象の周りを、象の故郷であるジャングルの情景が囲っています。
稲妻のような赤いラインは、象を苦しめるかのようにつらぬいています。
囚われた象が故郷のジャングルに帰りたがっている様子を、戦争で家族や愛する人と離ればなれになってしまった人々に重ねていると言われています。
No.5「馬、曲馬師、道化師」
白黒のスカートをはいた曲馬師が馬にまたがり、緑と黒と黄色のコスチュームを着た道化師が傍に立つ姿。右上の白黒が乗馬者、左下の黒緑が道化師です。画面を横切る黄色い線は、馬を打つ鞭を表しています。
曲馬の躍動感や華やかさが伝わってくる作品です。
No.6「イカロス」
「イカロス」はギリシア神話に登場する人物。
イカロスは蜜蝋の翼により空を自在に飛ぶことが出来るようになりますが、自らの力を過信し太陽に近づき過ぎたため、熱で翼が溶けて墜落してしまうという物語です。
1944年の時点では、「空中ブランコあるいは飛行士」というタイトルであったことから、当時の時代背景を考慮すれば、第二次世界大戦中に命を落したパイロットのようにも見えます。
絵の左のページには、マティス自身が、チャイニーズ・インクを使って筆で書いた文章が掲載されています。
ホンのひと時の自由は、
勉強を終えたばかりの若者たちに
大旅行を最後まで続けさせられなかった。
同時に「イカロス」には、闘病生活で死を覚悟したマティスの悲痛な叫びが重ねられています。
イカロスが逆さまに落下するように描かれていないのは、いったん深淵に沈んだイカロス(マティス自身)が愛によって、不死鳥のように蘇るという決意のイメージようにも考えられます。
No.7「ハート」
ハート(心)に関しては「ジャズ」のなかに次のような一文があります。
「心から、ひたむきに歌う者は幸いなるかな」。
この作品には、1944年の時点では「ヴェルヴ(活気、熱気)」というタイトルが与えられていたそうです。
No.8「狼」
赤い目をした狼が口を大きく開けて噛みつこうとしている様子が表現されています。
この作品は「赤頭巾ちゃん」の物語が暗に示されていると言われているそうですが、狼は現代の私たちを狙う何か(優しいふりをして近づいてくる危険な何か?)なのでしょうか。
マティスが作品を通して、現代の私たちに何か伝えようとしているのかも、と思えてきます
No.9「
シンプルですが、大胆に、かつ生き生きとしたラインで描かれたフォルムです。
色彩を反転させた二つのトルソは女性のボディを彷彿とさせます。
1944年にマティスがテリアードに送った手紙には、この「フォルム」について次のように書かれています。
「私が作ったのは…、造形的ポーズ、二つの美しいトルソである。裏面にはほぼ白い灰色が空色の上にあり、表面には空色のトルソがほぼ白い灰色の地の上にある」。
No.10「 ピエロの埋葬」
秋に一面の落ち葉に覆われた道の上を、ピエロの遺体を載せた葬礼の馬車が進す様子が描かれています。
マティス自身、自分の死期が近いことを予見した作品かもしれません。
『ジャズ』シリーズは一見明るくて華やかな作品のように思えますが、葬送や剣、狼、ナイフ投げの絵などのモチーフからも、晩年の彼の不安や心配のイメージを感じることができます。
No.11「コドマ兄弟」
タイトルの「コドマ兄弟」は20世紀初頭の有名な空中プランコ乗りです。
青と白の空中ブランコから黄色姿の兄弟がジャンプししている様子が描かれています。その下にある黒い網点は安全ネットのようです。
No.12「 水槽を泳ぐ女性」
パリのミュージック・ホールで演じられる出し物によくある、舞台上の水槽のなかで泳ぐ女性の演技者を表わしています。
りんごのようにも見える右下の赤い丸は、泳ぐ女性を見つめる一人の観客の頭部を表しています。
No.13「 剣を飲む人」
「サーカス」は、「ジャズ」シリーズの中心的なテーマの一つであり、サーカス団の演技や舞台裏の様子が描かれています。
特にこちらの「剣を飲む人」はサーカスの出し物である、剣を飲み込んでみせる芸人を切り紙絵で表わしています。
作品全体には、リズムと動きが感じられ、即興的なパフォーマンスのようなエネルギーが溢れています。マティスはサーカスを通じて、日常の中に潜む美しさや楽しさを捉えようとしました。その鮮やかな色使いと自由な形の組み合わせは、観る者に芸術の無限の可能性を感じさせます。
とてもインパクトのある作品です。マティスが幼少期に見たサーカスの光景をもとに制作したものと言われています。
No.14「 カウボーイ」
馬にまたがったカウボーイが投げ縄で女性を捉えている姿が描かれているそうです。カラフルな背景に二人のシルエットが引き立っています。
No.15「 ナイフ投げ」
左側がナイフを投げる芸人の男、右が的となる女性です。
女性の左胸(心臓)の部分のみ模様が反転して表現されています。
よく見るとマティスのジャズシリーズにはハート(心臓)モチーフを象徴的に使用している作品が多いように思います。
No.16「 運命」
右側の青い四角形のなかの白い形は、不安におびえるかのように抱き合うカップルを表し、左側の黒と紫の抽象的なコンポジションが彼らを脅かす運命を表しているそうです。
一見抽象画のようにみえますが、タイトルやモチーフの意味を知ると、そのストーリーが色と形の巧みな構成によってドラマチックに表現されていることに驚かされる作品です。
No.17,18,19「 珊瑚」
珊瑚を描いた作品が3作続きます。
動物あるいは海草を表わす形が静かに水のなかを漂よう様子が描かれています。
1930年のタヒチ旅行の思い出と結びついたイメージです。
「ジャズ」の文章部分の「礁湖」の項には次のようにあります。
「あなたは画家たちの楽園の七不思議の一つではないでしょうか」
No.20「 トボガン橇」
トボガンと呼ばれる橇(ソリ)で斜面を滑り下り、ころげる回る人の姿を描いています。
「道化師」とともに最初に作られたものの一つで、その最初の2点が版画集『ジャズ』の最初と最後を飾るように構成されています。
美術史における「ジャズ」の意義と影響
新たな表現の開拓「ジャズ」シリーズは、マティスが絵画の伝統的な枠組みを超えて新たな表現を開拓した象徴的な作品です。
色彩と形を自由に操ることで、絵画の持つ制約を打ち破り、芸術における表現の可能性を広げました。
彼の切り紙絵に技法は、その後の抽象表現主義やポップアートにも影響を与え、現代アートの基盤となる表現の自由さと即興性を確立しました。
芸術と健康の制約を超える力
マティスの「ジャズ」は、芸術が持つ癒しの力と創造性の可能性を示しています。身体の制約を超えて、新たな表現方法を見つけ出すことで、彼は自己の芸術的ビジョンを実現しました。これは、彼自身の生命力と創造力の象徴であり、多くの芸術家にとっての希望とインスピレーションとなっています。
未来への影響
「ジャズ」シリーズは、美術教育やデザインにも大きな影響を与えました。色彩と形を組み合わせることで表現される自由な発想は、現代のグラフィックデザインやイラストレーションにも通じるものがあります。
また、マティスのアプローチは、芸術がいかにして感情と視覚的な美を調和させることができるかを教えてくれます。
まとめ
アンリ・マティスの「ジャズ」シリーズは、彼の晩年の創造性のピークを示す作品であり、色と形を通じて自由な表現の可能性を探求した結果です。
サーカスや神話、音楽といった多様なテーマを取り入れ、観る者に感動と楽しさを与える「ジャズ」は、今なお多くの人々に影響を与え続けています。
『ジャズ』の中で切り紙絵の技法についてマティスは次のように書いています。
「ハサミを使ってデッサンする。色彩にじかに切り込んでいくと、彫刻家たちがする直彫りを思い出す。本書はそういった精神のもとに構想された。」
「色彩がいかに美しかろうと、それぞれをそばへ並べるだけでは不充分で、さらにこれらの色彩が互いに反応し合うようにならないといけない。さもないと、不協和音になります。「ジャズ」はリズムであり、意味であるわけです。」
アンリ・マティス著『画家のノート』より
彼の作品は、芸術の枠を超え、人生そのものを祝福するような色彩とエネルギーに満ちています。「ジャズ」は、色と形の即興的な詩として、私たちに創造の喜びと、表現の無限の可能性を教えてくれように思います。