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フィンセント・ファン・ゴッホ 「ローヌ川の星月夜」アートポスター(フレーム付き) / Vincent van Gogh “Starry Night Over the Rhône”名画・絵画[額入り]
フィンセント・ファン・ゴッホ 「ローヌ川の星月夜」アートポスター(フレーム付き) / Vincent van Gogh “Starry Night Over the Rhône”名画・絵画[額入り]
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※美術館品質の木製フレームとマットにて額装してお届けします。
※3~5営業日以内に発送。
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作家名:フィンセント・ファン・ゴッホ / Vincent van Gogh
作品名:ローヌ川の星月夜 / Starry Night Over the Rhône
サイズ(額外寸): W424㎜ × H348㎜ × D23㎜
重量:約1.6kg
技法:ジクレー
用紙:水彩紙
フレーム:木製ネイビー・前面アクリル板
付属品:紐、箱(額装し、壁掛け用紐を取り付けた状態でお届けします)
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※商品の色は撮影場所や照明の具合、ご利用のモニター環境により実際の商品と多少異なって見える場合がございます。
商品詳細
ゴッホがアルル滞在中の1888年9月に、夜のローヌ川の堤防の一角の風景を描いた作品。
描かれているのは当時ゴッホが借りていた黄色い家からほど近いローヌ川岸からの眺めです。
画面を覆う濃紺の中に、ガス灯の濃いオレンジ色が長く明るい影を水面にゆらめかせ、星々は宝石のようにきらめいています。おおぐま座の北斗七星は寄り添って歩くを優しく見守っているよう。
ゴッホ独自の荒いタッチにも関わらず、この作品は穏やかな詩情をまとっているように思います。
当時ゴッホは「夜の表現」に興味を抱いており、彼は弟や友人に対して星空を描きたい旨を手紙で語っています。
「僕は今、何としても星空を描きたいと思っています。夜は昼よりもさらに色彩豊かで、最も濃い紫、青、緑に彩られているように、僕にはよく見えるのです。注意深く見てみれば、檸檬色の星もあれば、ピンク、緑、青、勿忘草色に光る星もあることがわかります。そして、これ以上強調するまでもないことですが、星空を描くには青黒の上に白い点を置くだけではまるで不十分なことは明らかです。」
作家説明

フィンセント・ファン・ゴッホ / Vincent van Gogh
1853年3月30日 〜 1890年7月29日
国籍:オランダ
オランダのポスト印象派の画家。敬虔な信仰心を抱きながらも、伝道師としての挫折を経て、当時流行していた自然主義を実践する画家となる。初期には農民の生活を主題にした作品を制作。主要作品の多くは1886年以降、フランス居住時代、特にアルル時代とサン=レミでの療養時代に制作された。現在世界的に高い人気を誇り、唯一無二ともいえる存在感を放つ画家だが、その人生は困難の連続だった。深い苦悩に満ちた日々の中で、彼は困難に立ち向かう強さ、そして癒しと安らぎを芸術に見出す。感情の率直な表現や大胆な色使いで知られる。ゴーギャン、セザンヌとならぶポスト印象派を代表する画家に位置づけられ、表現主義やフォーヴィスムなど、20世紀の芸術に大きな影響をあたえた。生涯、独身で過ごす。
略歴
1853年 牧師の父のもと、オランダ南部のズンデルトに生まれる。
1869年 美術商グーピル商会のデン・ハーグ支店で働き始める。
1873年 グーピル商会のロンドン支店に転勤、一時、パリ支店に勤務。
1875年 パリ支店に転勤。この頃から聖書に没頭するようになる。
1876年 グーピル商会を解雇され、オランダに戻る。その後、イギリスで教師を勤める。
1877年 牧師を目指すが1年で断念。
1878年 ベルギーの伝道師養成学校で学ぶが、資格を得られず。
1879年 ベルギー南部の炭鉱ボリナージュで、臨時説教師として伝導活動に従事。常軌を逸した伝導を理由に、伝導委員会から活動を止められる。
1880年 画家になることを決意。ベルギーのブリュッセルの美術学校に入学する。
1881年 両親のいたオランダのエッテンで素描を描く。デン・ハーグで、画家アントン・マウフェの教えを受ける。
1883年 オランダ北部のドレンテ地方に滞在した後、ヌエネンにいた両親の元に移る。
1884年 1885年まで1年間ヌエネンで農民や農民の生活を主題にした作品を描く。
1885年 父死去。初期の有名作品「しゃがいもを食べる人」制作。ベルギーのアントウェルペンに移る。
1886年 フランスのパリに移り、モンマルトルのテオのアパルトマンに同居する。
1888年 南フランスのアルルに移る。「黄色い家」を借り、画家仲間との共同生活を計画する。10月下旬、ゴーギャンとの共同生活が始まるが、2か月後、ゴーギャンと口論の末、自ら左耳を切り取る。アルルの病院に入院する。
1889年 入退院を繰り返した後、サン・ミレの療養院に入院。庭の風景をモチーフに絵画制作を続ける
1890年 アンテバンダン展に出品した作品が好評。パリ近郊のオーヴェールに移住。7月27日オーヴェールの麦畑から、胸部をピストルで撃った状態で下宿先に戻る。翌々日の29日テオに看取られ死去。享年37。
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